小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
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少し前――今もやっているかもしれないが、朝日新聞社のテレビCMで幾人もの人が「言葉は○○。」と、各人の言葉に対する定義を口にするものがあった。新聞社のCMとしてはなかなかインパクトのある、興味を引く宣伝だったと思う。それにあやかってでもないが、今回は言葉は敵、敵を生むもの、ということについて少々。
敵と言っても、憎むべき排除すべき攻撃すべきそれではなく、相容れない純然たる他者、かつ無関心な不特定多数の他人ではなく、あくまでも私の言葉が対象とする他者、言葉によって相対する存在を「敵」と呼ぶ。言葉は本来、原初的に、他者と通じるための手段である。世界と私を結ぶものである。しかし、それゆえに、言葉を積み重ねれば重ねるほど敵は増える。逆に考えて、手段を持たねば他者と通じ合えないとは、そう言うことだからだ。いま、このときから全世界の人間が言葉を失えば、あるいは、自他の別もなくなり、沈黙は単なる無音となり、手段を持たずして我々は失われた他者と一体になれる。もちろんこの表現自体が矛盾しているけれども。
言葉の世界は自我を作り、個性を作り、他者を生む。私が何か言えば、その瞬間からそれに同意しようと同意しまいと、私ではない他者が言葉の向こうに現れる。一人の同意者がいれば百の異見者がおり、一つの同意は百の異見に支えられている。
それはやはり敵だ。しかし敵には、私と同じ、言葉を有する、各人の言葉の歴史を持つ、すなわち過去と記憶によって成り立つ人間しかなり得ないものだ。
言葉の世界は自我を作り、個性を作り、他者を生む。私が何か言えば、その瞬間からそれに同意しようと同意しまいと、私ではない他者が言葉の向こうに現れる。一人の同意者がいれば百の異見者がおり、一つの同意は百の異見に支えられている。
それはやはり敵だ。しかし敵には、私と同じ、言葉を有する、各人の言葉の歴史を持つ、すなわち過去と記憶によって成り立つ人間しかなり得ないものだ。
(NOTE:No.190)
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