小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
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少し前にチャットで三点リーダ(…)が話題になったので、覚書を残しておこうと思う。
三点リーダは今でこそ広く用いられているが、句読点や感嘆符と同じく、もともとは日本語書記(文語文)になかったものである。三点リーダ自体の歴史はよく知らないが、句読点が文の区切りを示すしるしとして整備され、定着しだしたのは明治に入ってからなので、三点リーダの歴史もそれより遡ることはない。ちなみに句読点が日本語書記に使われだしたのは、横書きの文書が海外から大量に輸入され、日本語を横書きで表すときに、欧文のコロンやカンマを真似たのがきっかけである。三点リーダも欧文の省略符号の模倣であるのは疑いない。古来の日本語の文章は、基本的には一切の符号を使わずに綴られていた。用言が活用し、終止形で文の区切りを表すことのできる日本文は、符号がなくても十分通じていたのである。
試みに手許の和英辞典を引いてみると、三点リーダの元になったと思われる英語の省略符号(ellipsis)はピリオドの連続で表され、文中に来るときはピリオド三個(...)、文末では四個(....)、文末に関しては最後の一個は本来のピリオド(句点)であろうから、原則三個連続で使うのが正しいやり方のようだ。用法の説明としては、「文中や段落に省略や中断があることを表す」とある。特に一語以上の省略に使用するらしい。三点リーダも表記は変わる(……)が、用法はほぼ英語のそれを踏襲している。沈黙や無音の状態、省略、余韻などを表す目的で使われ、ようするに意図的な言葉の省略、語られない言葉のための記号である(この場合の記号は、狭義の「しるし・符号」を指し、記号論には立ち入らない)。
さて、三点リーダが元は外来記号であって、日本語になじみ始めて日の浅いことが分かったところで、今回特に取り上げたいのは沈黙と余韻の用法である。この用法に関しては、言葉で表す手段が別にあると言う点で、句読点とは一線を画している。「……」を使わなくても済む可能性があると言うことである。
?「……もちろんだ」
と山下は答えた。
?一呼吸おいて、もちろんだ、と山下は答えた。
上記の二文は、読者に与える印象は異なるが、意味内容はほぼ同じである。?の「一呼吸おいて」は一瞬押し黙ってから、でもいいし、しばらくの間があって、でもいい。前後の文脈から判断してふさわしい語句が選ばれていれば、問題はない。?も基本的にはそうである。他の表現の可能性を考慮した上で、多様な選択肢の中から最終的に三点リーダが選ばれているのなら、何の問題もない。ただし、三点リーダは他の言葉による表現方法に比べれば歴史の浅い、日本語としてこなれていない書記記号のはずである。一概には言えないものの、不慣れである分、最も使いどころを誤りやすい沈黙表現のはずである。
沈黙を類語辞典で引くと、黙る、押し黙る、黙止、緘黙、噤む、不言、絶句、しじま等々の多様な言葉があり、この他にも実際に文章にするときには、しゃべらない、話さない等の否定表現や、目を見交わした、うつむいた等の別の行為で言葉がなかったことを示す表現が候補にあがってくることだろう。語られない言葉を表す手段は三点リーダ以外にも数え切れないほどある。にもかかわらず、大和言葉でも漢語でもない三点リーダは、現在、日本文に氾濫している。これが使われていない小説を探す方が難しいほどである。かくいう私も使っている。便利だからついつい使ってしまう。しかし例えば、ノーコメントという外来語は言葉であるために「沈黙」と完全な同義語とはみなされず、使用頻度も低い。なのに三点リーダは記号であるため、沈黙etc=「……」という図式が容易に成り立ってしまうのか、その普及率、汎用性は空恐ろしいほどである。
くり返しになるが、三点リーダは日本古来の漢字仮名交じり文が生んだものではない。なくてもよかったものは、必需品ではなく、あれば便利なものに過ぎない。あっという間に浸透した携帯電話のように利便性は魔力を持っている。便利だから使う、は危険である。言葉を扱う以上、多様な選択肢の中で最も適切だから使う、という基本姿勢を、魔力に惑わされて忘れないよう気をつけたい。
試みに手許の和英辞典を引いてみると、三点リーダの元になったと思われる英語の省略符号(ellipsis)はピリオドの連続で表され、文中に来るときはピリオド三個(...)、文末では四個(....)、文末に関しては最後の一個は本来のピリオド(句点)であろうから、原則三個連続で使うのが正しいやり方のようだ。用法の説明としては、「文中や段落に省略や中断があることを表す」とある。特に一語以上の省略に使用するらしい。三点リーダも表記は変わる(……)が、用法はほぼ英語のそれを踏襲している。沈黙や無音の状態、省略、余韻などを表す目的で使われ、ようするに意図的な言葉の省略、語られない言葉のための記号である(この場合の記号は、狭義の「しるし・符号」を指し、記号論には立ち入らない)。
さて、三点リーダが元は外来記号であって、日本語になじみ始めて日の浅いことが分かったところで、今回特に取り上げたいのは沈黙と余韻の用法である。この用法に関しては、言葉で表す手段が別にあると言う点で、句読点とは一線を画している。「……」を使わなくても済む可能性があると言うことである。
?「……もちろんだ」
と山下は答えた。
?一呼吸おいて、もちろんだ、と山下は答えた。
上記の二文は、読者に与える印象は異なるが、意味内容はほぼ同じである。?の「一呼吸おいて」は一瞬押し黙ってから、でもいいし、しばらくの間があって、でもいい。前後の文脈から判断してふさわしい語句が選ばれていれば、問題はない。?も基本的にはそうである。他の表現の可能性を考慮した上で、多様な選択肢の中から最終的に三点リーダが選ばれているのなら、何の問題もない。ただし、三点リーダは他の言葉による表現方法に比べれば歴史の浅い、日本語としてこなれていない書記記号のはずである。一概には言えないものの、不慣れである分、最も使いどころを誤りやすい沈黙表現のはずである。
沈黙を類語辞典で引くと、黙る、押し黙る、黙止、緘黙、噤む、不言、絶句、しじま等々の多様な言葉があり、この他にも実際に文章にするときには、しゃべらない、話さない等の否定表現や、目を見交わした、うつむいた等の別の行為で言葉がなかったことを示す表現が候補にあがってくることだろう。語られない言葉を表す手段は三点リーダ以外にも数え切れないほどある。にもかかわらず、大和言葉でも漢語でもない三点リーダは、現在、日本文に氾濫している。これが使われていない小説を探す方が難しいほどである。かくいう私も使っている。便利だからついつい使ってしまう。しかし例えば、ノーコメントという外来語は言葉であるために「沈黙」と完全な同義語とはみなされず、使用頻度も低い。なのに三点リーダは記号であるため、沈黙etc=「……」という図式が容易に成り立ってしまうのか、その普及率、汎用性は空恐ろしいほどである。
くり返しになるが、三点リーダは日本古来の漢字仮名交じり文が生んだものではない。なくてもよかったものは、必需品ではなく、あれば便利なものに過ぎない。あっという間に浸透した携帯電話のように利便性は魔力を持っている。便利だから使う、は危険である。言葉を扱う以上、多様な選択肢の中で最も適切だから使う、という基本姿勢を、魔力に惑わされて忘れないよう気をつけたい。
(NOTE:No.195)
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