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小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
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 巷も(少し前まで? 今も?)純愛ブームだそうだけれど、別にその流行について云々するつもりはなく。大河を書きながらふっとわき起こったのです。

 純愛と言うからには純粋な愛情のことだろうけど、それは純粋な自己の発現なのか、純粋な利他の発露なのか。純粋な恋心、とはたぶん違う。かといって普遍的な人類愛とも違うだろうし。愛とは何か、から考えるとややこしいので今は考えない。単純にここは男女間でよく使われる純愛でいこう。じゃあ、対象がひどく限定される利他愛でいいのか知らん? 純愛は何となく、二人の間だけのもののような気がする。愛が私とあなた以外に向くことはなく、だから純度が高いんだろうか。
 恋と比べてみよう。恋はたぶんもっと自己に傾いている。そして一方向的。一方的なものは時間的でもない。恋する対象はいつも固定的なので変化しない。変化するとしたら、それは即純粋な恋の終わりを意味する。失恋は自己完結のものだ。恋の相手と愛の相手は性質が異なる。
 純愛レベルは少なくとも双方向的。双方向のものは基本的に時間がある。こちらからあちらへ、あちらからこちらへ、見交わすものは、時間を生む契機を持っている。現在(自分)から未来(未知なる相手)へ、未来から現在へ、見つめ見つめられ、その距離は必ず時間を生む。そして時間は必ず変化をもたらす。変化はもちろん純粋の敵だ。しかし変化を嫌ったところで、相手があるものを、自分だけ終わらせることはできない。逆に言えば、自分だけで完結させられない要素が、恋と愛を決定的に分ける。恋は片恋から失恋に至るまで、純粋性を失いそうになったら、ただ恋する自分を殺せばそれで済む。純粋な恋は成就したらもう恋のみではなくなる。
 愛はどうか。純愛の最終的な純粋性の固守は、相手を殺すことでしか成らないのではないか。心中にしろ、相手の病死、事故死にしろ、見つめ返してくる相手が永遠に停止する、すなわち死ぬことでしか、純愛は成り立たないのではないか。
 
 しかしいずれにしろ、純粋と呼ばれるものに関して、その純粋さを認定するのはいつも第三者だ。当人がみとめる純粋さなんてまがいものくささがある。
 第三者の作者は考える。はたして彼の、彼女の、これは恋か愛か。それとも全く別の何かか。殺したいのは自分か、相手か。それとも世界か。
 当人同士にとってはそんなことどうでもいいのだろうけど。
(NOTE:No.203)
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About writer
Name:Misumi Eiri(3A)
Home:SERANGOL
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