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小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
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 物言わぬ植物について。

 まず第一に私は彼らが嫌いなのではない。山肌にペンキを塗って緑地化だと嘯くことを歓迎しないし、ビル群だらけの都会を好むわけでもない。ただ、ガラス張りの植物園に行くのは嫌である。捕食されている気分になるからだ。言うまでもなく光合成によって、動物と植物とは相互扶助の関係にある。二酸化炭素と水を原料として、光を受けて糖と酸素が生成される。動物は植物の実や茎や根を食べ、酸素を吸って生きている。植物は動物の出す二酸化炭素を必要としている。別に植物が動物を直にとって食らうわけではないけれども、犬に囲まれることと植物に囲まれることとは違う。
 植物は根を張っている。これは動物側からしてみれば、へその緒とつながった胎児のイメージである。植物は生涯、母体である大地から切り離される必要がない。動物は切り離されることで「動」の世界に生きる。「動」の世界には、速さが生じる。速さとは基本的に、動かない地と動く己とのズレ(距離)を認識することから生じる概念である。そして速度と距離があれば、当然時間がそこに関わってくる。この時間は起点と終点を見せる時間である。つまり「動」の世界には、誕生と人生と死が存在する。(動物と人間の差は今は措く。)
 動物は死によって土に還る。長い目で見れば、根を張って大地(母体)から養分を得ている植物(胎児)に食われているのと一緒である。植物も動物を食らい、地上では動物の出す二酸化炭素を吸って生きている。だから私は彼らが「怖い」わけだが、この恐怖は食べられることの嫌悪ではなく、その視点から始まる未知への恐怖である。
 「動」の世界に速度・距離・時間があると言うことは、「静」の世界にはそれらが一切ないと言うことを意味する。動物の尺度は植物には通じない。私にとって一本のにんじんが食用であるように、にんじんにとっても私は食用である。動物の基準に当てはめると立場上そうだということだが、肉食獣が私を餌にすることと、植物にとって私が食用であることとはまるで違っている。肉食獣が何を食べても、それは二酸化炭素を排出するのだから、私の食事と同じである。同じ此岸にある、と言ってもいい。ところが植物の食事は彼岸にある。排出するものが逆転するだけで、相手の「食事」はこちら側には全く分からないものになっている。彼らにとって、長らく胎児の姿で成長する彼らにとって、切り離されて動き回る栄養源(動物)とはいったい何なのだろうか。しかし何の尺度も通じなければ、そもそも言語で考えること自体が徒労である。私は言葉の世界に閉じこめられている。植物園はそのことを強く私に知らしめる。あの場所は、ある意味で言語の病棟である。
 ところで、私たちが時間や速度や距離の概念を持つということは、過去を造り出し、過去を置き去りにできるということでもある。この過去とはまた、死者のことである。母体から切り離されたときから、私たちは自らも切り離し続ける、過去を、死者を、そうやって今を生きている。限りある生を知っている。植物にはそんなものないであろう。動かなければ、足も目も口も脳も生も死も時間も此岸も彼岸も必要ないのだ。
 しかし、そうだから無意味だとはしない。
 直線的な時間と輪廻的な時間が共存しているように、植物的無時間とも、我らの動的有時間は接している。時間の裏には時間の非在がある。その二者間を突き破るものが瞬間の爆発ではないかと思う。そして爆発としての架け橋を生じさせる土壌に、互いを食べ合う関係があるだろう。
(NOTE:198)


 前回に書いた植物について補足を少々。
 動物の世界を「動」、植物の世界を「静」としたことについて、植物にサイレントのイメージがない、という意見をいくつか頂戴した。これはもっともな話で、私の方が(あの短い文章の中では)用語を誤ったのだと思う。申し訳ない。単純に「植」の世界としておいた方が無難だったかも知れない。
 この地球上にはさまざまな樹木文化があり、大樹に対して仙人や古老のイメージを持つ人もあれば、熱帯植物に一種のかまびすしさを感じる人もあるだろう。庭木と会話ができる人もあるだろう。私はそれらのことを否定するつもりは一切ないし、そもそも、そういうことと私が言った「静」は別物なのである。例えば、私の住む地域はもうすぐ桜の季節を迎えるが、桜の咲くのを例年より早い(または遅い、例年並み)と感じる人は多くても、一つ一つの蕾の開花スピードで速さを感じる人は少ないだろう。数値的には測定可能だとしても、それは私たちの生活の感覚からは遠い。先天的な感覚、と言ってもいい。私たちの目や鼻や耳や、五感のすべてが、桜は早さ、つまりめぐる時間の中にあると主張している。言うまでもなく速度は距離と時間で求められるが、植物はその概念から遠い。速度の世界に対して不動だと言ってもよいぐらいに思う。もちろん科学や生物学の領域では、植物の光合成のスピードや養分の吸収のスピードが問題になったりするかも知れない。それでも我々は目視の次元において、植物と速度を競うこと――例えば徒競走や競泳など――はできないのである。
(NOTE:No.199)
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Name:Misumi Eiri(3A)
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