小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
昨日は遠方の友人が来ていたので大原に行ってきました。三月だというのに雪の舞う日でめちゃくちゃ寒かったです。あまりの寒さに三千院と寂光院を巡るので精一杯、他の寺は次回保留になってしまいました。しかし、とにかくどこもかしこも空いていたのは良かったですね〜。
寂光院と言えば「平家物語」灌頂巻をもとにした能「大原御幸」が有名ですが、皆さまご存知でしょうか。灌頂巻は「平家物語」冒頭の名句「盛者必衰の理」を凝縮したような内容の巻です。平清盛の次女建礼門院徳子は、高倉天皇の中宮となって親王(のちの安徳天皇)を産み平家一門の繁栄の中心にありましたが、壇ノ浦で一門が滅びたあとは出家し寂光院にてその菩提を弔うことに余生を捧げます。そこへある日突然、女院にとっては義父に当たる後白河法皇がわずかな従者とともに訪ねて来、一度は栄華を極めた女院と対面して昔語りに耳を傾ける――それが「大原御幸」(御幸は上皇・法皇・女院の外出を言います)のあらましです。
仏教に六道輪廻という考えがあり、すべての衆生は死後に生前の業に従って六つの世界に輪廻転生することを教えています。六つの世界はすなわち、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道をいい、天道は一見よさげですが、天人すら五衰(天人の死相のこと)を免れないというのが仏教ですから、悟りを開かない限り六種の苦道を永久に巡り巡らなければならないわけです。で、女院は作中、「私は生きながらにして六道すべてを経験した女です」というようなことを言います。天皇の母となって平家一門の全盛期を支え、壇ノ浦では我が子安徳天皇が自分の母親二位尼(清盛の正妻)に抱きかかえられて入水するところを見、その後は都を離れた大原の寂光院にてひたすら仏事に励むわび住まい。後白河法皇の御幸を受けたとき女院はわずか三十一歳(諸説あり)、まさに波瀾万丈、濃密な人生です。
さて、すべてを見てしまった女院の目にとって、もはや六道のいずれもが死後のことではなくなっています。過ぎ去ったものでもなく、女院は以後何を見るにつけてもすべてを見つくした目で見続けなければならなかった、つまり六道すべてが常に現前していたわけです。この女院の目を通して考えるとき、輪廻は時間概念の一種ではありません。直線時間に比するものではない、と言うことです。輪の中を順番に巡ってゆくのが輪廻の時間だと思うのは結局、直線的時間を中心に考えているのであって、そもそも輪廻には始まりも終わりもありません。過去が現在に交錯するだけでなく未来も現在に重なっている。
……日本の庭や建築物は必ずそのことを実感させる作りになっています。三千院の客殿に足を踏み入れるとまず廊下が奥に伸びているのですが、まっすぐ行かずにふと横に逸れるとまた元の入り口に戻ってきてしまうルートがあります。最初に通ってきたはずの廊下がまた遠くに見えてきたとき不思議な感覚に襲われます。戻ってきた瞬間、先に通った場所は再びこれから通る道に変質し、文字通り過去と未来をぐるぐる回ることになる。回遊式庭園に多く見られる橋にも同じことが言えます。橋のあちら側はさっきまでいた場所でありこれから戻る場所でありこれから向かう場所でもある。行きっぱなしの場所ではない。
えー、そろそろ何言ってんのコイツとか思われそうですが(苦笑)、まっすぐに流れるだけが時間の姿ではない、と日本の神社仏閣をめぐるたびに思うのですよ。今回の大原行でもそのことを感じられたので、雪で寒かったけれど良かったなぁとしみじみ思います。
仏教に六道輪廻という考えがあり、すべての衆生は死後に生前の業に従って六つの世界に輪廻転生することを教えています。六つの世界はすなわち、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道をいい、天道は一見よさげですが、天人すら五衰(天人の死相のこと)を免れないというのが仏教ですから、悟りを開かない限り六種の苦道を永久に巡り巡らなければならないわけです。で、女院は作中、「私は生きながらにして六道すべてを経験した女です」というようなことを言います。天皇の母となって平家一門の全盛期を支え、壇ノ浦では我が子安徳天皇が自分の母親二位尼(清盛の正妻)に抱きかかえられて入水するところを見、その後は都を離れた大原の寂光院にてひたすら仏事に励むわび住まい。後白河法皇の御幸を受けたとき女院はわずか三十一歳(諸説あり)、まさに波瀾万丈、濃密な人生です。
さて、すべてを見てしまった女院の目にとって、もはや六道のいずれもが死後のことではなくなっています。過ぎ去ったものでもなく、女院は以後何を見るにつけてもすべてを見つくした目で見続けなければならなかった、つまり六道すべてが常に現前していたわけです。この女院の目を通して考えるとき、輪廻は時間概念の一種ではありません。直線時間に比するものではない、と言うことです。輪の中を順番に巡ってゆくのが輪廻の時間だと思うのは結局、直線的時間を中心に考えているのであって、そもそも輪廻には始まりも終わりもありません。過去が現在に交錯するだけでなく未来も現在に重なっている。
……日本の庭や建築物は必ずそのことを実感させる作りになっています。三千院の客殿に足を踏み入れるとまず廊下が奥に伸びているのですが、まっすぐ行かずにふと横に逸れるとまた元の入り口に戻ってきてしまうルートがあります。最初に通ってきたはずの廊下がまた遠くに見えてきたとき不思議な感覚に襲われます。戻ってきた瞬間、先に通った場所は再びこれから通る道に変質し、文字通り過去と未来をぐるぐる回ることになる。回遊式庭園に多く見られる橋にも同じことが言えます。橋のあちら側はさっきまでいた場所でありこれから戻る場所でありこれから向かう場所でもある。行きっぱなしの場所ではない。
えー、そろそろ何言ってんのコイツとか思われそうですが(苦笑)、まっすぐに流れるだけが時間の姿ではない、と日本の神社仏閣をめぐるたびに思うのですよ。今回の大原行でもそのことを感じられたので、雪で寒かったけれど良かったなぁとしみじみ思います。
(NOTE:No.149)
PR
ブログ内検索