小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
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境界のことについてずいぶん小説や雑談でもしゃべっているが、その実私は名づけられるような意味で「境界」なるものが普遍的に在るとは思っていない。空間的境界とは現代の境界観と相対的に見た結果生じたものであって、現代の我々は厳密に言って線分的境界観が生じる以前のことを、つまり過去の人間の境界体験そのものを洗い出すことなどできはしない。過去と現在に通底する何かが確実にあって、その伸縮、形態の差だけが問題にされるのならことは簡単で、例えばクラシックに憧れてあえてタイプライターを購入するように、過去にあった空間的境界について分析の限りを尽くし、古き良き時代に戻った気になればいいだけである。しかしPCやワープロを知る現代人が懐かしむタイプライターと、手書き社会を刷新する新技術として現れたタイプライターとは似て非なるものであって、そうした我々の見方以前に存在する絶対物などどこにもないのである。
問題はむしろ、相対的な比較によってしか空間的境界を考えられない我々の認識にあるので、そのような認識の方法しか残されていない以上、現代人の考え得る空間的境界がそっくり過去にも実在していたと考えた途端、我々の思考はありもしないものへの空想に堕してしまう。だから、いま考えられる空間的境界は擬似的過去であり、現代人の私にとって必要とされ、過去をヒントにして新たに生み出されたものに過ぎない。
問題はむしろ、相対的な比較によってしか空間的境界を考えられない我々の認識にあるので、そのような認識の方法しか残されていない以上、現代人の考え得る空間的境界がそっくり過去にも実在していたと考えた途端、我々の思考はありもしないものへの空想に堕してしまう。だから、いま考えられる空間的境界は擬似的過去であり、現代人の私にとって必要とされ、過去をヒントにして新たに生み出されたものに過ぎない。
ところで境界の究極を突きつめれば、それとは「死」である。現在の私は、死とは何かについて考えることに不毛しか感じないので、死をいかに受容しうるかと言うことだけを枕頭においている。ドラマ等で常套的に用いられる心電計の停止、心肺停止、死亡診断、ようするに諸々の物質的(科学的)証拠では死を認めることができない。生と死の境に絶対的な一点が存在すると思えないからだ。死の概念自体が認識の問題である以上、ある意味動物は死なないし、人だけが死ななければならない。多様な死生観があふれかえる現代のなかで、ただ私は目の前に突きつけられた喪失と「死」をいかに重ね合わせられるか、それだけを考えている。
私にとって死者とは死んだ人ではなく、出かけたままずっと帰らない人である。その感覚と死亡の事実とはいまだに一致してくれない。葬列に加わっても遺体に接してもお墓参りをしても一緒である。ともかくここにはいないがあそこにはいるだろう、その不可思議な予感がずっとまとわりついている。もちろん私だって現代人の端くれなので、一秒一秒万人に平等に過ぎ去る時間を信じないわけではないし、世界地図を嘘と思うわけでもない。それでも何時何分に地図上のどこにも存在しなくなりました、ということの了解を体のどこかで拒絶している。不帰の人が出かけた先を私は知らない。いるだろうと感じる「あそこ」は住所不定のどこでもない。しかし、「あそこ」は決して現世とかけ離れた天国地獄の類ではなく、時間を止めた場所でもない。その場所はちゃんといまここにいる私とつながっており、ふとした瞬間に近づいたかと思えば遠ざかる、感覚でしか捉えられない「どこか」である。ちなみにこのことは幽霊や霊魂の存在とは結びつかない。大体(科学的根拠においてではなく)私はそう言うものを信じない。現代の幽霊は「死んでから」なるものと考えられているからである。その霊体は、生者であったその人が地球上のどこにも存しないと言うことを前提に現れているからである。生と死のあからさまな断絶が幽霊を存在させるのなら、とりあえずその考え方は私の考え方と矛盾するので信じないでおくのである。
さて、上記の意味で「死」は何らドラマティックなものでなく、私の日常の延長につながっている。日常そのものと言っても良い。出かけたまま帰らない期間と私の日常生活とは並行し、または同行している。葬送の非日常性を否定するのではないが、あの祭儀は人の生の一回性をいやと言うほど体感させながらも、やはり「死」を死亡診断書や心電計の停止のように一瞬の断絶としてしまわない、断ち切りながら断ち切らない連続性を保持している。
断ち切りながら断ち切らない――いま何でもないことのように書いたが、私は、矛盾する言葉同士の狭間に立ちあらわれる「なにものか」について語れるだけの言葉を持っていない。線分的境界と空間的境界を対立させるだけではなく、対立の涯てにとけ合うような地点について、何一つ切り込める言葉を持っていない。それでいながら(それだからこそ?)私は来年もファンタジーを書き続けることだろう。他ならぬ私の日常のために。
本当はこれらのことを考えたり言葉にしたりするのは苦しい。だが、出かけたまま帰らない日が積み重なるだけだった今年、なぜか今年のうちに書いておかねばならない気がした。
私にとって死者とは死んだ人ではなく、出かけたままずっと帰らない人である。その感覚と死亡の事実とはいまだに一致してくれない。葬列に加わっても遺体に接してもお墓参りをしても一緒である。ともかくここにはいないがあそこにはいるだろう、その不可思議な予感がずっとまとわりついている。もちろん私だって現代人の端くれなので、一秒一秒万人に平等に過ぎ去る時間を信じないわけではないし、世界地図を嘘と思うわけでもない。それでも何時何分に地図上のどこにも存在しなくなりました、ということの了解を体のどこかで拒絶している。不帰の人が出かけた先を私は知らない。いるだろうと感じる「あそこ」は住所不定のどこでもない。しかし、「あそこ」は決して現世とかけ離れた天国地獄の類ではなく、時間を止めた場所でもない。その場所はちゃんといまここにいる私とつながっており、ふとした瞬間に近づいたかと思えば遠ざかる、感覚でしか捉えられない「どこか」である。ちなみにこのことは幽霊や霊魂の存在とは結びつかない。大体(科学的根拠においてではなく)私はそう言うものを信じない。現代の幽霊は「死んでから」なるものと考えられているからである。その霊体は、生者であったその人が地球上のどこにも存しないと言うことを前提に現れているからである。生と死のあからさまな断絶が幽霊を存在させるのなら、とりあえずその考え方は私の考え方と矛盾するので信じないでおくのである。
さて、上記の意味で「死」は何らドラマティックなものでなく、私の日常の延長につながっている。日常そのものと言っても良い。出かけたまま帰らない期間と私の日常生活とは並行し、または同行している。葬送の非日常性を否定するのではないが、あの祭儀は人の生の一回性をいやと言うほど体感させながらも、やはり「死」を死亡診断書や心電計の停止のように一瞬の断絶としてしまわない、断ち切りながら断ち切らない連続性を保持している。
断ち切りながら断ち切らない――いま何でもないことのように書いたが、私は、矛盾する言葉同士の狭間に立ちあらわれる「なにものか」について語れるだけの言葉を持っていない。線分的境界と空間的境界を対立させるだけではなく、対立の涯てにとけ合うような地点について、何一つ切り込める言葉を持っていない。それでいながら(それだからこそ?)私は来年もファンタジーを書き続けることだろう。他ならぬ私の日常のために。
本当はこれらのことを考えたり言葉にしたりするのは苦しい。だが、出かけたまま帰らない日が積み重なるだけだった今年、なぜか今年のうちに書いておかねばならない気がした。
(NOTE:No.115)
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