小説執筆日記、サイト運営日誌、雑記その他
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今回のテーマは改稿です。と言っても改稿するか否かではなく、具体的に何を変えるのか、と言うことについて少々。いや、何をって表現に決まってるんですけど、私が改稿する際に心がけることと言いますか。かなり偏ったこと言いますんで興味がおありの方は以下どうぞ。
改稿に必要なものは「捨てる技術」です。もとい、捨てる勇気です。そもそも改稿という行為自体が、加筆するにせよ、過去に「完成」にこぎ着けた文章を廃棄することに他なりません。ひとつのパズルがあります。ピースを全てうめると一応完成します。が、時が経つにつれてピースがきちんとはまっていないような、形の合わないピースを無理矢理はめているような、そんな気がしてきます。そうなったらもう、合わないピースを仕方なく放置するか、よりふさわしいピースを新たに探してくるか、二つに一つです。で、新しいピースを手に入れたら、古いピースはその瞬間から無用の長物です。どう考えてもそのパズルには不要のものです。どうするか迷うまでもなく要らないのだから思い切って捨てる、それしかないでしょう。もちろんそのピースは破れてしまったわけでも曲がってしまったわけでもない。捨てるには忍びない、何かに使えるかも……そうやっていつまでもとっておく心理はよく分かります。しかし一度タンスの肥やしになった服が大抵二度と日の目を見ないように、使い道のないものを残しておいてもゴミをためているのと一緒です。ゴミは捨てないと還元されません。ゴミを死蔵していても何も起きませんが、捨てれば巡り巡って還元されます。新しく見出した表現だけが生き残るのではなく、捨てた表現は、捨てることによって活きる。どういうことか?
例えば全く同じ表現が二つの作品にあったとします。作品Aの「Kは悲しみのあまり泣けなかった」と言う表現は、「Kは悲しみすぎて涙が出なかった」「Kはあまりの悲劇に泣くことも忘れた」等々の他の表現を切り捨てた末に選ばれたもの、一方作品Bの同じ表現は一度も推敲を経ていないものです。すると同じ言葉なのに何が違ってくるのか。作品Aのパズルの方が明らかに完成度が高く見えるのです。言葉の作品に対する切れ味が全然違ってくるのです。
もちろん、改稿ばかりしていてもイタチごっこで永遠に終わりなど来ない、だから新作に挑戦するのも大事だ、いつまでも改稿に執着することこそ捨てる技術に反する。それも一理あります。しかし私は、もう改稿しなくてもいいやと決意する(諦める?)のは、そのパズル自体が古びた時だけでいいと思っています。パズルが新しいピースを求める以上は改稿をやめたくないし、やめられないんですね。……単にしつこいだけかもしれません(苦笑)。とゆーかストーカーみたいです。女が老けるまで追いかけ回す、ストーカーの言い訳です(?)
例えば全く同じ表現が二つの作品にあったとします。作品Aの「Kは悲しみのあまり泣けなかった」と言う表現は、「Kは悲しみすぎて涙が出なかった」「Kはあまりの悲劇に泣くことも忘れた」等々の他の表現を切り捨てた末に選ばれたもの、一方作品Bの同じ表現は一度も推敲を経ていないものです。すると同じ言葉なのに何が違ってくるのか。作品Aのパズルの方が明らかに完成度が高く見えるのです。言葉の作品に対する切れ味が全然違ってくるのです。
もちろん、改稿ばかりしていてもイタチごっこで永遠に終わりなど来ない、だから新作に挑戦するのも大事だ、いつまでも改稿に執着することこそ捨てる技術に反する。それも一理あります。しかし私は、もう改稿しなくてもいいやと決意する(諦める?)のは、そのパズル自体が古びた時だけでいいと思っています。パズルが新しいピースを求める以上は改稿をやめたくないし、やめられないんですね。……単にしつこいだけかもしれません(苦笑)。とゆーかストーカーみたいです。女が老けるまで追いかけ回す、ストーカーの言い訳です(?)
(NOTE:No.99)
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