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 傷つきやすい心と「私は私」という考え方とは、一見反対して見えるもののようである。確かに「私は私だ」と割り切れる人は、他人から何を言われようと傷つかない強い人、という意見には一理ある。が、本当のところは傷つきやすい心の自衛手段として「私は私」という思い込みが発達したのではないか。

 一昔前に「オンリーワン」なる言葉がはやった。「ナンバーワン」になろうとしなくていい、世界でたった一人しかいない「オンリーワン」の自分を大事にしよう、という趣意の言葉である。別に私は競争主義者ではないから、この「オンリーワン思想」(と大仰に命名してみる)を端から毛嫌いするわけではない。他人との競争に傷ついた人間には一番の癒しになるだろう。ただし、「オンリーワン思想」の美点は、明らかに「ナンバーワン思想」との比較によって強調されたものである。オンリーワンを歌詞に用いたあの歌があんなにも大流行したのは、ナンバーワンとそれを比べたからである。もしあの歌が「オンリーワン」ばかり主張する歌詞であったなら、あの程度の歌唱力(好きな方失礼)の歌があそこまで大衆の心を捉えたはずがない。「オンリーワン思想」そのものの弊害は、ナンバーワン主義を糾弾することによって見事に誤魔化されたのである。
 では、「オンリーワン思想」の弊害とはいったい何か。「オンリーワン」を美徳とする考えは、「私は私だ」という主張の正当性を助長する。想像してみよう。いったいどんな場面で人は「私は私」と言う必要性を感じるのか。
 それは、自分より優れたものに出会ったときと、自分とは異質なものに出会ったときである。前者の場合はナンバーワン思想(敗北感)に傷つけられないために「私は私」と人は思う。この意味で「オンリーワン」と「ナンバーワン」を比べるやり方は方法論として間違っていない。しかし、後者はどうなのか。自分と異質なものは優劣とは関係なく存在している。それに向かって「私は私」と言うとき、その「オンリーワン」的主張は基本的に「ナンバーワン思想」とは無関係になされている。この違いを見過ごして「オンリーワン」賛美一辺倒に陥るのは危険である。
 なぜなら、前者にしろ後者にしろ、「私は私だ」と叫ぶ強さの裏には、優れたもの、異質なものによって自分の領域を侵されたくない、傷つきやすい「私」がいるからである。例えば、自分と違う意見に接すると「そういう考え方もあるよね」と一応他人のことを認める。が、決してそれ以上踏み込んでこようとしないし、逆に自分の方に踏み込ませようともしない。
 しかし、これは他人を認めて受容することとは違う。どちらかと言えば関わり合いにならないよう遠ざけている。自分の中に他人を受け入れることは容易ではない。大小はあっても自分を傷つけなければ、異質なものを受容することなどできないのだから。
 もちろん「私は私」と言う強さは必要である。相手の「私」を尊重することも大事である。自他の意識がしっかりしていなければ、そもそも自分と異質なものをそれと認めることはできない。けれども「私は私」という思いは時として傷つきやすい心を守ろうとするあまり、異質なもの(他者)との間に壁を作る。この壁に守られていれば確かに傷つかずに済むが、人は異質なものによって自分の形に傷をつけ、そこから変化して成長してゆく。壁を作れば作るほど成長は遅れ、いつまでたっても大人になれない。
 かくいう私もてんでガキなのだが(苦笑)、少なくとも「私は私」と言いたくなるとき、それが傷つきたくないがための自己保身になっていないか自答する心は失わないようにしよう、と自戒する次第である。
(NOTE:No.163)
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Name:Misumi Eiri(3A)
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